丸善南1条店撤退の衝撃

札幌LRTの会

2005年09月05日 00:34

丸善て何?と思う人が多くなっている事が、このような事態になったのかもしれないが、札幌の興隆とともに先端を歩いていた店が中心街から消えて行くのは、南1条4丁目付近の地盤沈下が進行しつつある証左ではなかろうか。昨日のまちばるで話をされた狸小路のシアターキノの中島洋氏も昨年より入場者がかなり落ちている由で、いよいよ駅前付近一人勝ちからいかにお客を南に引き寄せる方策決定が喫緊の課題であることが痛感される。それにしても又文化的なものが中心部から消えて行くのは魅力を一段下げることになる。
丸善札幌店は大正11年1922に現北大正門前付近に開業、北海道帝国大学になったのが1918年だが22年には医学部が開学した。医学部は東大から教授陣を招いたのでその要請があったのではないかと思われる。その2年後には工学部が開学、洋書や文房具、機材等順調に仕事は伸びたと推察できる。22年には付属図書館の増築を完了している。このように帝国大学のある街には丸善は店を出し東京本店と変わらぬものを提供してきた。
昭和10年には道庁前電停の大同生命ビルの1階洋品雑貨化粧品、2階和洋書、文具の店を展開、当時の最先端を行く品物を揃えていた。男の化粧品はあまり使われていなかったが帝大の先生を始め高給取りは舶来品若しくはそれを模した丸善製が愛用された。文具はアテナ印として非常に知識層に愛用された。バーバリーコートの輸入元であったし、それを模した丸善製も愛用された。ゴルフ道具や珍しい物は世界の窓口であった.国産化して安価に提供した側面もある。
終戦の年1945年に現在地に移っているが、それは米軍進駐により洋館作りの建物は全て接収されたからである。大同生命ビルは当時の駅前通では最も立派なビルであった。彼らはスチーム暖房と水洗便所がどうしても欲しかったからである。進駐により日本中の大都市のビルが接収され中にいた人は強制退去された。かくして現在地に移ったが写真によると和風の商店風建物で借家であった。昭和28年に自前の鉄筋コンクリートのビルを建て南1条の近代化に花を添えた。今のビルはそれを三越と共同ビルに建替えたものだ。
その頃は丸善のない町には住みたくないと思っていた。
しかし時代は変わり、大学は生協に依存し、丸善も外商部が直接学校に出入りし、丸善に出入りするする事を誇りとする教授も、こんなに大学が増えても、いなくなってしまった。今では洋書は文芸書では紀伊国屋のが上だし、ヴィジュアル本ではCoach&Fourのが上である。おまけにAmazon.comが地方のお客さんを取ってしまった、海外の本屋がカタログをドンドン送ってくる時代である。洋品類も何処でも売っている時代になった。文房具は100円ショップでほとんど揃う時代だ。高級品は通販でも買えるし海外旅行した時に買ってくる。
丸善の使命は終わったのかもしれない。外商部は北野にあるから大口需要者は変わらないだろう。苗穂はJR駅をもう少し西に移してSCに近くするらしい。でも市電でもできないと行くことがあるだろうか。

丸井今井も売上を落としていると言う。札幌グランドホテルも落ちていると言う。駅から歩いてくる人は若い人かビジネスマンばかり。人間は300m歩けばイヤになると言うのが人間工学の定説だ。札駅から大通り駅まで900mだ、歩くには問題がある。昔の様に道庁前とグランドホテル前に停留所がいる。狸小路にも。
最早議論してる時ではないと思うが、  臼井
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